2017年04月29日

榎井の「からくり」!

琴平・榎井の「からくり」を探りに。



かつて数回探し回った挙げ句の果て、去年だったっけか
あっけなく目の前に現りた「呑象楼」(どんぞうろう)。

琴平マル○カと榎井小学校の間に在る此処わ

「日柳燕石」(くさなぎえんせき)が棲んで居らりた隠れ家です。

◇◇◇

註釈:日柳燕石。

 幕末の勤皇博徒。〈日柳燕石〉は漢詩人としての雅号。

 讃岐国(香川県)榎井村生まれ。生家加島屋は質屋兼地主で裕福であり,幼少より漢籍に親しんで学もあったが,榎井村の隣が金比羅様社領で博奕も盛んだったことから博徒になった。
(ん~なるほど。今読ンぢょる小説の主人公が、お伊勢参りの博徒で諸般の事情から頷ける)

 16歳ごろからの遊蕩で生家を食いつぶしたが,金比羅様の賭場からあがるテラ銭で潤沢。

  高松藩勤皇派の魁で藩主一族の松平左近の影響で勤皇派になり,
安政2(1855)年同藩勤皇派と組んで挙兵を計画し,6年に兵器製造,文久3(1863)年には軍費2000両の調達にかかったが,露見して藩士たちは捕らえられたものの燕石は無事。
(安政の大獄(あんせいのたいごく)デス。

↑ 安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧。

江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印。

これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件。
弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士(活動家)らで、連座した者は100人以上にのぼった。

 其すぃて慶応1(1865)年。
長州の高杉晋作が四国へ逃げてきたのをかくまった。

此処ョ。

博徒にして勤皇の志士。加ぇて棲まぅ家わ
住職の妾宅。

其処にわ色々としつらえた「からくり」が有った!ワケですねぃ。

文人・博徒・志士。
非常にエキセントリックな。

◇◇◇

前置きが長くなったが、其ンな「呑象楼」の一般公開が明日までです。

わし、マ○ナカの駐車場に仔リスを停めて向かぃます。

が。同時に近くに駐車すぃたワンボックスカーから…
翁・若い夫婦&学童と、其の姉?らすぃきご婦人までもが、わしと同じ小経を歩き始めた。

え。まさか。
はい。「呑象楼」目的の同類デスぃた。
(*´ー`*)

着ぃた時にわまさかの新聞社取材中!

あぁ、家族連れを先に通す為、外観を写メって居った時に二階の窓からしゃべくりながら俯瞰しちょらりた方たちかネ。

其処も「からくり」なンかねっ!?
と、興奮を隠すわしわ玄関で靴を脱ぎます。

一階わ改装さりた集会場なン。
と、優しさぅナ翁が説明を始めてくりますぃた。

恐らく、先のファミリィと連れ。だと一瞬思われただらぅに
わしにも丁寧なアドバイス♪
ありがとう御座います。

一階にわ、隣の榎井小学校学童の詳しぃ表示が有って可愛い♪



うん、キミたちがちゃんと保存してくれちょるンだネぇぃ♪

取材終了を待つ間に、ファミリィをまとめる若いお父さんが記帳中。

次に記すわしわ、彼らが八王子市民だと知る。

「今まで気になってたンです」

翁に話しかけるパピィ。わ里帰りっぽぃ。

其処から団子になって、無関係のわしもワクワクドキドキすぃながら急角度の階段!




いかん。
酔いが回ってきた。

画像量オーバー、消去すぃながらの毎日。

高杉の奇兵隊に博徒出身者が多いのは燕石との付き合いからだといわれる。

高杉のほかにもかくまわれた勤皇の志士は多く,燕石から漢詩をもらってその志を称されているが,サムライが博奕打に漢詩をもらうのも妙。

↑ わしテキにハマる♪

慶応1年閏5月に逮捕され,明治1(1868)年出獄後,征討総督仁和寺宮(彰仁親王)の日誌方として奥羽戦争に参戦し,柏崎の陣中で病没した。維新の内戦に参加した博徒は多いが,勤皇派は燕石,佐幕派は新門辰五郎が代表。

すんません。
酔っ払いなのて続きわ明日。



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